「生きる価値」について
7月30日、中国新聞の社説は「LGBT(性的少数者)差別」について大きく論じています。自民党参院議員の杉田水脈なる人物が月刊誌に投稿した一文に性的少数者を指して「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同を得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供をつくらない。つまり『生産性』がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか」というくだりを紹介して大きく批判しています(詳しくは当日の社説を)。
彼女の所属している政党の幹事長も「人それぞれの政治的な立場、色んな人生観がある」と擁護さえしています。まさに唖然とせざるを得ません。これが公党に所属し、国会議員としての席をもっている人物だと思うと暗澹たる気持ちにさえなります。彼女の発言は時の政権の鉄砲玉です。確信犯です。
果たして「子どもを授かる」ということは、単なる「生産性」のためだけでしょうか。国民にも他の国々の人びとにも凄惨きわまりない苦しみを与えたあの大戦のため、国は「産めよ増やせよ」と号令をかけました。まさに彼女の言う「生産性」を上げるためです。そしてそれは、兵士として戦地に赴くことを余儀なくされるためにこそ、仕掛けられた操作です。
その反省の上に立って、この国の憲法には何にもまして個人の尊厳を謳いあげています。
いったい人間として「生きる価値」はどこにあるのでしょうか。
戦後、近江学園での実践を基に障害のある人たちの福祉の礎を築いた糸賀一雄は「何もできない人たちに税金をかけたくないという人がいる。それが経済的に豊かになったからといって、少しは金をかけてもいいだろうといって重度の人たちを対象とするならば、経済が厳しくなったらまた切り捨てられるのではないかと」と危惧していました。まさにその危惧がこういう形で表れてしまいました。
現代の社会は新自由主義という得体のしれないイズムがはびこり、競争の激化と不全感に苛まされる人たちが、自らの居場所を求めながらさまよっているように思います。
しかし、知的な障がいのある人たちは自らの尊厳をかけて発言しています。
栗栖晶は、偏見と向き合う中で「せっかくおかあさんがうんできれたんじゃけん、じまんしてくらす」と言います。山本弘子は、パターナリズムの眼差しにも負けず、自らの尊厳をかけて「ひとはどう生きるかが大切です」と訴えます。井手元昇は、共生社会のかなめである「お互い様を「ぼくはじがよめないからかのじょのあたまをかりる。かのじょはみみがわるいからきこえるまでおしえる」と言います。重広伸明は、「わしはわし並みでえかろうがい」と発言し、いわゆる人並みという常識の中で個を埋没させている社会を批判しています。
確かにこの人たちには知的な障がいはあります。しかし、人間が人間として生きていく上で、一人の人間としての尊厳が守られることにこそ生きる価値があるのだという問いかけには、しっかりと耳を傾けなければなりません。
広島県安芸高田市ひとは福祉会・寺尾文尚 2018年8月9日
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