原発を「核の平和利用」と考えるのはやめましょう
―核兵器禁止運動は「原発廃絶」を掲げるべきであるー
矢ヶ崎 克馬~琉球大学名誉教授
矢ヶ崎 克馬~琉球大学名誉教授
§1 原発は「核の平和利用」ではない
(1)原発は核兵器の補完物として登場した
核兵器製造にはウラン濃縮が基本だ。プルトニウム製造にもウラン濃縮が基本なのだ。
核戦略を維持するためにはウラン濃縮工場を経常的に稼働させ続けなければならない。
核兵器だけの目的では平和時には過剰生産に陥る。しかしウラン濃縮工場をいったん停止するならば、立ち上げて通常運転に快復するまでに相当の時間が必要だ。工場を止めたのではいざ核戦争となった時に間尺に合わない。ウラン濃縮工場を定常的に運転するのには財政負担も大きく、それを解決しようとする核戦略が「核の平和利用」であった。原発の推進はその後の核支配体制の基本となったのである(NPTなど)。
(2)核独占・核不拡散体制は原発推進体制
核戦争が全人類に惨害をもたらすものであり、したがって、このような戦争の危険を回避するためにあらゆる努力を払い、世界及び人民の安全を保障するための措置をとることが必要である。
そこで昨年までの国際的枠組みであったNPTの条文構造を見ていくと、
1番に核兵器の不拡散、2番に原子力平和利用、であり、核兵器の削減、はやっと3番目に出てくる。「原子力発電」は「核兵器不拡散」の義務付けとセットになる位置づけである。
「核の平和利用」という建前のペテン性が核戦略上ではっきりしている。ここでは放射線被曝防止の観点は全く排除されている。
核不拡散条約の構成
(1)核拡散を抑止(第1条[核兵器国の不拡散義務]、2条[非核兵器国の拡散回避義務])
第三条 [転用防止のための保障措置]国際原子力機関
(2)原子力平和利用原発・核爆発(第4条[原子力平和利用の権利]
5条[非核兵器国への核爆発の平和的応用の利益の提供])
①原子力の研究、生産及び利用⇒奪い得ない権利
②設備資材、科学的技術的情報⇒最大限度に交換
③非核兵器国の応用の発展に貢献
(3)核兵器の削減(第6条[核軍縮交渉])第七条 [地域的非核化条約]
(3)原発は潜在的核兵器
自民党政治家の原発と核兵器に対する認識が所々でほころび出ている。
原子力技術はそれ自体平和利用も兵器としての利用もともに可能である。どちらに用いるかは政策であり国家意思の問題である。日本は国家・国民の意志として原子力を兵器として利用しないことを決めているので、平和利用一本槍であるが、平和利用にせよその技術が進歩するにつれて、兵器としての可能性は自動的に高まってくる。日本は核兵器を持たないが、(核兵器保有の)潜在的可能性を高めることによって、軍縮や核実験禁止問題などについて、国際の場における発言力を高めることができる。(岸信介、「岸信介回顧録」、廣済堂出版、83年)
11年10月に、石破茂自民党政調会長(当時)が以下のように説明する。
原発を維持するということは、核兵器を作ろうと思えば、一定期間のうちに作ることができるという「核の潜在的抑止力」になっていると思っています。逆に言えば、原発をなくすということはその潜在的抑止力をも放棄することになる、という点を問いたい。(中略)核の基礎研究から始めれば、実際に核を持つまで5年や10年かかる。しかし、原発の技術があることで、数カ月から1年といった比較的短期間で核を持ちうる。加えて我が国は世界有数のロケット技術を持っている。この2つを組み合わせれば、かなり短い期間で効果的な核保有を現実化できる。(「SAPIO」2011年10月5日号)
(4)原発事故のどさくさに紛れた「原子力基本法」改正
<市民の知らないうちに原子力基本法が改定されていた>2012年6月20日
元の原子力基本法第2条:
(基本方針)
第2条 原子力利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする。
ところが、福島第1原発事故のどさくさに紛れ、12年6月20日に、原子力基本法の改定が行われ、第2条第2項として安全保障の文言が付け加えられ、以下のように改定された。
(基本方針)
第二条 原子力利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする。
2 前項の安全の確保については、確立された国際的な基準を踏まえ、国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的として、行うものとする。
(民主、自民、公明の提案による)
原子力は「我が国の安全保障に資することを目的として」行うことにされた。とんでもないことである。提案した諸党の「我が国の安全保障」が国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全とは別記して主張しなけらばならない概念であり、事故後の原発廃絶を阻止する必要性をこの条文として追加したものと理解しなければならない。
§2 核兵器禁止条約と原発
昨年国連で採択された「核兵器禁止条約 前文」 に残念な表記がある。
本条約は、締約諸国が
一切の差別なく平和目的での核エネルギーの研究と生産、使用を進めるという譲れない権利に
悪影響を及ぼすとは解釈されないことを強調
核兵器禁止条約の前文には、上記の文言が含まれる。「核不拡散条約」の支配体制をそのまま維持するもので、目的を核兵器に絞るために、「放射能から人類を守る」という観点を犠牲にしたものではないか?妥協の産物としか言いようがない。IAEA、UNSCEAR, ICRPなどの情報操作がこのような前文作成の土台になっている。
§3 科学の原理からの誠実な警告を無視する体制はファシズム
―温泉管理はできてもマグマ管理はできないー
我々は、核の研究はやむ得ないものと受け止めるにしても、少なくとも商業原発を「核の平和利用」として位置付けることを廃止すべきである。
多くの良心的市民が学問的意味合いで「核の研究」は排除してはならないと思っている。客観的事物である「諸対象」に対して探求を行うことは排除してはならないだろう。
しかし、自発的原子核崩壊を制御することは現在の科学力では全くできない。これは「核分裂の原子炉の管理が破たんした時、制御不能となる必然性を持つ。フェイルフリーが成り立たないのである。いわば、火山の周辺現象として温泉は利用できても、マグマを制御できないことと同じである。自然現象とはやむを得ず共存しなけらばならないのが人類の宿命だ。しかしその恐ろしい破綻をきたすシステム「原発」を人工的に作り出して自ら危険を掘り起こすのは御免蒙る。絶対避けるべきだ。
この認識は既に科学の原理からの大きな警告として発せられ続けている。しかし国家戦略と功利主義で科学の誠実な警告は無視続けられている。
ICRP(国際放射線防護委員会)曰く「リスクより公益が大きいときには原発は許される」。
すなわち原発が日常的に殺人を犯しても発電という公益の方が大きいならば殺人が許される(ICRP防護3原則の第1)と開き直るのである。
人命を人格として大切にしあうことが民主主義の根幹である。全ての市民に人格権があり、大切にしあうのが民主主義だ。私たちは「すべての人が大切に扱われる社会」を目指している。
原発産業はこの民主主義を根本から平然と覆す。その挑発的宣言がICRP防護3原則なのだ。
科学の原理からの警告を無視続ける商業原発は平和利用ではありえない。我が国においても、この警告と関連して「原子力研究・開発の3原則」なるものが発せられたが、3原則など初めから適用不可であった。学問の自由は国家権力と原発産業の資金力により完全に封殺され、あの恐ろしい集団「原子力ムラ」が構成され、「安全神話」がまかり通った。事故後7年の現在「放射能安全神話」が国家的大キャンペーンで市民の人格権を奪う。原子力分野におけるファシズムである。
原発は核の平和利用ではない。
これを命を大切にする全ての市民の共通理解として広めるべきである。
原水爆禁止運動目標に、原子力発電の廃止を人類共通の目標として掲げるべきである。
0 件のコメント:
コメントを投稿